以前書いた、『陽だまりの彼女』の感想を多くの方に読んでいただいたようで、嬉しいです。
決して原作厨ではないつもりですが、文字情報を映像や画像にしたものを見ることをあまり好まないので、見ようか見まいか…DVDで借りればいいかな…でもそれだと見ないだろうな…と、別に悩んでいるわけでもない今日この頃です。友人がゴリ押ししてきたら、DVDで見ます。それ以外なら、見ない。
さて、2回目の感想!今回も、高等な感想文を期待しないでくださいね。
感想文というよりは、あらすじが中心ですが…この時点でなんかもうだめな気がする。
あと、思いっきりネタバレを含みます。
管理人の良心=追記に感想文。
畠中恵、『つくもがみ貸します』、角川書店、2010年。
あらすじ。
付喪神(つくもがみ)とは、百年もの間、大切に扱われてきた高直(こうじき)なものが成る妖(あやかし)だ。
お紅と清次という義理のいとこが営む、江戸は深川にある小さな古道具屋兼損料屋の「出雲屋」には、こうした付喪神が何柱かいる。損料屋とは、損料、つまり借用料をとって衣服や夜具から根付に至るまでを貸す店のことである。作中では、火事の多かった江戸では、人々はあまり多くのものを持たなかったとある。それでも、遊女が布団を借りたり、料理屋が開店祝いに飾る品々を一時的に借りたりしたらしい。
物語は、香炉の蘇芳とその持ち主の行方を軸に、深川の人間模様と付喪神の活躍を織り交ぜながら展開していく。人間側は、「出雲屋」や、料理屋の「鶴屋」などの町人が中心だが、遊女や武家も登場する。付喪神側は、「出雲屋]にいる、掛け軸の月夜見、煙管の五位、姫様人形のお姫、蝙蝠根付の野鉄、櫛のうさぎを中心に、香炉の裏葉柳や帯留めの黄君が登場する。彼らは、人間とは口を利かないものの、人間の聞こえるように話すし、自由に動くこともできる。百年を超える年月を生きる彼らにとって、お紅と清次は頼りないが、なにかと手助けをし、事件の解決をしていく。
感想などなど。
この本にでてくる付喪神は、非常に人間くさい。大切に扱われているといっても、箱に仕舞われ、蔵に置かれていては暇だと嘆き、貸し出された先で付喪神を見かければおしゃべりに興じ、「出雲屋」では仲間とおおいに噂話を楽しむ。日本の、というよりは多神教の神様は、一神教の神様よりも人間らしい気がする。絶対者として君臨する存在は無く、他者に試練を課すこともなく、だが一方で力関係が透けて見える。特に、この本の付喪神たちは、気位は高くともせいぜい「大先輩」くらいのイメージだ。それも、部活動の(…こんな下手な喩だと、怒られてしまうかしら)。
損料屋について、考えること。
現代の生活では、借りる、という行為を家や金銭以外ではあまりしないように思う。モノは買うものだという意識が、どこかである気がする。所有欲を満たす金銭もそれなりにある。経済的な理由故だろうが、それとは反対の、良いモノを共有する、という作品中の人々の――おそらく江戸の人々の――心意気は、一考すべきだと思う。庶民は普段は慎ましい生活を送っていても、ハレの場では多少の贅沢をしたい、そのためには多少の金銭を支払い、ちょっと手の届かないようなものを一時的にせよ所有してみたいと思っていたのだろうか。
ところで、この文章を書いている間に、電通の、1970年代の戦略十訓を思い出した。
- もっと使わせろ
- 捨てさせろ
- 無駄使いさせろ
- 季節を忘れさせろ
- 贈り物をさせろ
- 組み合わせで買わせろ
- きっかけを投じろ
- 流行遅れにさせろ
- 気安く買わせろ
- 混乱をつくり出せ
最後は付喪神が関係ない件。いや、無理やりつなげる。
最近の品々に、付喪神になりうるものはあるのだろうか。工場で大量生産されたものより、職人が丹精込めて作り上げたものの方が、成り得る気がする。高直とは、広辞苑によれば、「①価格の高いこと、たかね。②貴くて得がたいこと。また、そのもの」、とある。大量生産してたものだって、値段の張るものはいくらでもあるだろう。でも、貴くて得がたいことは、職人の手間暇、そのものはその結果たる品。きっと私の持ち物が付喪神になれることは、残念ながらないだろう。いや、生まれたときから一緒にいるくまのぬいぐるみはなれるかもしれない。しかし、それ以外はどうも厳しそうだ。社会人になって、お金に余裕が出てきたら、なるべく長く使える、良いものを揃えて行きたいなあと、思った。
…話を終わらせるって、難しい。
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