2015年10月30日金曜日

捨てられた僕は。『いなくなれ、群青』

河野裕『いなくなれ、群青』新潮社、2014年。


新潮文庫NEXより昨年刊行されたキャラクターノベル。
出版社と書店がかなり力を入れて売り出したこともあり、一度は表紙を目にした人も多いと思う。
そして、つい最近、シリーズ二作目である『その白さえ嘘だとしても』が発売された(お茶の水の三省堂でうず高く積まれていたのは圧巻だった)。

「キャラクターノベル」を標榜するだけあって、主人公の七草をはじめ、各キャラクターの「キャラ」が丁寧に作り込まれている。今回は七草と真辺宇由にスポットが当てられているが、巻を追うごとに他のキャラクターの掘り下げが進められることに期待したい。

さて、「高校生」、という生物的に子どもから大人へと移行していく時期は、人間的にも一大転機を迎える時期でもある。
表面をなんとか繕いながら、内面の激動とどう折り合いをつけていくのか。
日本の多くの16歳から18歳は両親や学校に守られながら、この繊細極まりない時期を過ごす。
現在、日本には差し迫った外患は無い。無いことになっている。憲法違反の法案を巡って国会や各地で紛糾しているが、基本的には平和な日常を過ごせている。だから、内面のドロドロとした感情に向き合わざるを得なくなるのだ、と思う。
誰もが抱える、もやもや、いらいらした感情を勉学やスポーツ、あるいは学校行事に上手く昇華できれば万々歳、スクールカーストの最下層は免れる。
ここでうっかり妙な趣味――マイナーなもの――にハマってしまえば、学校生活のと雲行きがちょっとばかり怪しくなる。……正直、その時々のクラスメイトによるのだけど。このへんの話は、朝井リョウの『桐島、部活やめるってよ』が実に上手く描いているので、ここではこれ以上言うまい。

「高校生」。
まだ高校生になってないお嬢さんや坊や、なんだか変に期待してない?
今まさに高校生の君、毎日充実してる?
かつて高校生だったあなた、もう二度と戻れない三年間は、楽しかったですか?
私は、どうだったかな。今となっては最高の日々だったと思っているけど――。


ところで、この作品で一番印象的だったのは、「透明感」と「色」だ。
だからかな、百万回生きた猫のトマトジュースが、やけに鮮やかで印象的だった。まるで、血のようで……。


以下ネタバレ。


そろそろ内容についてコメントしようか。

「階段島」の住人は、捨てられた存在である。
成長の過程で、自分自身に「いらない」と切り離されてしまった人格の一部分。
だから、登場人物は皆、どこか過剰なのだ。尖っている。幸か不幸か、島の住人は、お互いの過剰な部分を「個性」だとして受け入れている。そこに少しだけ救われた気持ちになる。それと同時に、ラストの七草の心情を考えると、果たして彼らは幸せになり得るのだろうか、と不安になる。このシリーズの「ハッピーエンド」は、一筋縄ではいきそうにない。まあバッドエンドは好物なのでどちらでも構わないけど……。

それにしても、「キャラクターノベル」とはよく言ったもので、いかにキャラを立てて物語を紡いでいくのかが楽しみである。「キャラクターありき」とは言わないまでも、キャラクターが最大限魅力的に動けるような作品になって欲しい。


2015年10月27日火曜日

海老名市立中央図書館

10月1日にリニューアルオープンした、海老名市立中央図書館(神奈川県)に行ったときの感想。

TSUTAYAなどを運営するCCCと手を組み、サービス向上を図ろうとしていたが、一番肝心な選書で揺れている、との情報を得たので、冷やかしに行くことにした。10月7日に行ったきりなので、いろいろ曖昧です……。


まずは入り口。
ライセンス契約を結んでいるであろうスターバックスを左手に、正面や右手にはTSUTAYAが売っている雑誌をメインとした書籍と雑貨がドーンと陳列。ここは図書館と言うよりは書店なので、ガヤガヤとした雰囲気。子連れの人が気軽に来れそうだけど、海老名市民の税金で賄われているであろう公立の建物・サービスで商売っ気を露骨に出していることには違和感を覚えました。
書籍は、比較的新しい単行本や文庫が中心。あと雑誌の最新号。

2階に上がれば、もう図書館。
ただし、場所によっては1階の喧騒やBGMが響いてうるさい。

3階は広い学習スペースがある。席数は数えていませんが、公立図書館にしては多いのかな。
夕方になると、制服姿の高校生でいっぱい。部活の道具を引っ提げた子が多かった印象。
元々図書館を活用する土地柄なのか、新しいものができたのでとりあえず見に来たのかは不明。まあ民間業者の手を借りるくらいだから後者だろうな……。
ひとしきりキャアキャアギャーギャー騒いだ後は、「席がないねえ」とあっさり帰った模様。完全に高校にいるときのノリだった。私は真面目に勉強していなかったし、懐かしかったので、生暖かく見守っていました。本当はTSUTAYAの制服を着たスタッフだか司書さんだかが注意すべきなんですけどね。
営利団体だと注意しにくいのかな、気付かなかっただけかな。この対応は少し気になりますね。

4階は「こどもとしょかん(キッズライブラリー)」。
プラネタリウム跡地。
父子が仲良く電車の模型と一緒に写真を撮っていて微笑ましかったです、まる

そして、地下1階。
秘密基地みたいでした。小説がずらっと並んでいて圧巻。雰囲気が良い。

全体的な感想は、「取り組みとしては面白いが、長続きするかは怪しい」。
既に散々指摘されていることですが、書籍の分類法が独特で、図書館に慣れている人は戸惑うでしょう。一応、検索機はありますが、そういう問題でもないような。若者はすぐに順応できそうですが、図書館の利用者はシニア層が多いことを考えると、その辺どうなんでしょう。

2015年10月26日月曜日

哲学的ゾンビの憂鬱

挨拶的な何か、

木枯らしが吹き荒ぶ季節になりましたね。
西の空がなんとも言えず美しい。
沈みゆく日が、雲を淡い桃色に染め、山は影に、空は水平線から大きな虹のような色の七変化を作り出している。
この文章を書き終える頃、もう一度西方を眺めれば、日は山影に沈み、僅かに残っている橙色がどんどん暗闇に飲まれていく。
……お久しぶりです。前回の記事は残暑の厳しい頃でしたね……。

あと近況とか

最近、ブクログなるものを始めてみました。
こちらに記載していて本の感想をお引越しさせるか検討中です。
でも、このブログから本の話題を取ったら何にも残らないので、本以外の記事が書けるようになるまでは保留かな……。

哲学的ゾンビは何を知っているのか

「哲学的ゾンビ」という思考実験をご存じだろうか?
……ご存じ、ないのですか!?
彼/彼女こそ、「物理的化学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、意識(クオリア)を全く持っていない人間」、哲学的ゾンビちゃんです!

こらー!真面目にやランカ!

……さて。
「哲学的ゾンビ」、にちゃんねる哲学板あたりで取り上げられているのを偶然目にして知りました。
ちょっと心に引っ掛かることがあったので、ググったり飲茶氏の書籍をパラパラ捲ったりしてみることに。
この思考実験で重要なのは、意識(クオリア)の有無。
そして、その意識(クオリア)は人間の機能的には不自然である、らしい。
意識がなくても、人間は社会生活をきちんと送れるという。例えば、「抓られた」ら「痛いと感じる」という肉体的感覚、「格好良い先輩とお話しできた」ら「女友達とキャーキャー騒ぐ」という反応。
「美しい夕日を眺め」て、「綺麗と呟く」あるいは「誰かに伝えようと文章や絵で描いてみる」。
これらは人間様の特権でもなんでもなく、将来精密なロボットが再現できそうなことだ。もちろん、そのロボットに意識はないだろう。

そもそも。
私は誰?アイデンティティって何?私のオリジナリティって?
人間は、生まれる前から、ある程度どう成長するか、心身共に予想が付く生き物だ。
ホモ・サピエンス・サピエンスそのものが内包する特徴。両親・祖父母をはじめ親戚からの遺伝。そして、育つ環境。
私の場合、生まれた時は父方の親戚によく似た見た目をしていた。
中学から高校にかけて、人並に反抗期を迎えた。多少、暴力的な衝動があり、夜な夜な自室で枕を殴りつけた。ひょんなことから、祖母が若い頃、怒り狂って皿をぶん投げていたことを知った。激しい気性は血筋らしい。
知らない人に対して無意識のうちに猫を被ってしまう性格も祖母譲りだ。大したことが無くても大袈裟に騒ぎ立ててしまう性分、学問好きな傾向、運動好き、etc.どれも「すみかのオリジナル」ではなく「親戚の誰かと似ている」。
冷静に考えれば、何にも依らない、100%のオリジナルである人間なんて存在しない。それは、人間ではない。
でも、私という存在のアイデンティティは何かと問われると、一気に不安定になる。
だって、先に挙げたような特徴(=情報、データ)をぎゅっと詰め込んだヒト型の何かが現れたら。
私とソイツのどちらが本物か、分からないじゃないか。

哲学的ゾンビの問題について考え始めると、背筋が寒くなる。
考えれば考えるほど、世界が、自分が、不確かな存在となっていく。

ところで、哲学的ゾンビは、ゾンビ自身が「意識(クオリア)を持たないこと」を知っているのだろうか?
例えば、高校生、人間だったら思春期真っ只中のゾンビちゃんに、
「実はあなたは哲学的ゾンビで、自分の意識(クオリア)なんてないのよ」
と言ったら、どうなるだろうか?
戸惑うか、泣き出すか、鼻で笑うか、それとも、悩み始めちゃって「鬱」になるか。
……哲学的ゾンビ狩り、なんてことがあったらやってみたいなあ。




<参考文献>
飲茶『哲学的な何か、あと科学とか』二見書房、2006年。

BGM
# God knows...
# 【MEIKO】咲音メイコ「星間飛行」




2015年9月7日月曜日

【感想】資本主義の、その先へ。『里海資本論』

●井上恭介、NHK「里海」取材班『里海資本論 日本社会は「共生の原理」で動く』KADOKAWA2015年。


前作『里山資本主義――日本経済は「安心の原理」で動く』(2013)が良書だったので、期待して購入。
軽くおさらいしておくと、『里山資本主義』では、「マッチョな経済」の限界を指摘、GDPなどの数字では表せない豊かさを提示してみせた。ただし、タイトルが表す通り、資本主義自体は否定しなかった。あくまで、現行の経済システム(=資本主義)を改善しつつ、マネーに依存しないサブシステムの在り方を、木材などの例を挙げて説明、提案するにとどまっていた。
経済政策を重んじる安倍首相を始め、経済界の人々は憤慨するかもしれない内容だが、「経済ってなんだっけ?」という原点に立ち返るときに、案外重要な視点になると思う。通勤、通学の電車内で読み切れる分量だ。また、文章も読みやすいので、オススメ。


さて、今回取り上げる『里海資本論』について。
まず注目したいのが、タイトル。
『里山資本主義』と『里海資本論』。そう、資本主義から資本論へ、進化したのだ。
「資本論」といえば真っ先に思い浮かぶのが、マルクスやエンゲルスらによる『資本論』だ。資本主義と対立する、共産主義、社会主義などを連想させる用語を、なぜ用いたのか。取材班は、資本主義に見切りをつけたのか?
そうではない。「マッチョな経済」、つまり資本主義のどん詰まりの末に生まれざるを得なかったのが、「里海資本論」だったのだ。
「マッチョな経済」では、経済成長の踏み台として、地球環境を犠牲にしてきた。しかし、人間も地球に住む生物の一種である以上、破壊された自然の中では生きていけない。つまり、地球環境も経済成長も、搾取する一方では、いずれ必ず限界を迎える。資本主義は、限界を伴うのだ。そして、その限界は、もしかすると人類の滅亡、地球の破壊なのかもしれない。
そんな資本主義経済に異を唱えたのが、19世紀のマルクスやエンゲルスであり、21世紀の「里海資本論」である。

「はじめに」で紹介された「里海」「SATOUMI」の学術用語としての定義は、「人手が加わることによって生物多様性と生産性が高くなった沿岸海域」だ。
今作の主な舞台は、瀬戸内海。高度経済成長期に「死の海」と成り果てた瀬戸内海の復活と再生を軸に、話が展開する。
工場排水などの化学物質で汚染された「死の海」を復活させたのは、地元の漁師と水産試験場(現・水産研究所)の研究員ら。廃れかけた伝統の中から、復活の糸口を探っていく。ここで重要なのが、対抗する化学物質を投入したり排水制限したりといった一時的な対処療法で終わらなかったこと。カキ筏やアマモなど、地元の人たちでさえ忘れかけていた伝統的な営みに地道に取り組んできたことこそが、復活のカギとなった。伝統の一部が復活したことにより、連鎖的に昔の記憶が浮かび上がり、人と自然が有機的に関わっていくことになる。特に村上海賊の末裔の活躍ぶりには舌を巻いた。

「里海」「SATOUMI」これら学術用語は、「瀬戸内海生まれ日本発」だという。
なぜ、日本発なのか。
それは、宗教観にも結び付いているという。
資本主義が、キリスト教という一神教を背景に持つことは有名である。そして、科学によって自然を屈服させ、搾取することに違和感を覚えないのも、一神教的発想であることは否めない。
日本人は、ときに「無宗教だ」と言われることもあるが、基本的には八百万の神々を信仰している。山や川、海といった自然を祀り、一粒の米に七人の神々を見る。神々と人間は、自然の中で共存しているのだ。
日本的発想に基づけば、人間も、神々のおわします自然の一員として、自然に働きかけることは悪いことではない。むしろ、自然環境を破壊したのなら、積極的に修復する手助けをすべきなのである。アダム=スミスが期待したような、一神教的「神の手」が修復してくださることはないのだから。


私は、都市に住む人間だ。
遠い親戚で田舎に住む人たちはいるが、交流はあまりない。
だから、『里山資本主義』を読んだときも、『里海資本論』を読み終わったときも、大いに魅力を感じつつも、どこか他人事であると感じたことを、正直に告白しよう。あと、些かユートピア過ぎやしないかと思ったことも。
都市に住み、資本主義を象徴するお金で生活する。食材、水道、光熱、書籍、パソコンなどの電子機器。大学や塾。博物館や美術館。第一次産業品も第二次産業品も第三次産業のサービスも、全部全部お金で買っている。お金でモノやサービスを消費することに、あまりにも慣れ過ぎている。衣食住、全て顔も知らない誰かに任せっきり。これは、生物の生き方としてはとても危うく、もっと言ってしまえば、間違っていると心のどこかで思いつつも、この生活を手放す勇気はない。
それでも、世界の最先端で、こういった動きがあることを知れたことで大いに勉強になった。
本書に出てくる人は、老若男女を問わず、皆元気そのもの。都市で精神が半分死にかけている私には、とっても眩しい。
田舎暮らしって、カッコイイ、楽しそう。
多くの人が本心からそう思い、都市から田舎へ移住する流れが決定的になったとき、日本社会はまた新たな局面に入っていくのだろう。

まだまだ私は、その流れには乗れない。どうして乗れないのかが分かれば、地方創生の微力な一助になる気がする。が、この記事とは関係ないので、今回はここまで。


里海資本論 日本社会は「共生の原理」で動く (角川新書) amazon.com

2015年8月13日木曜日

【スペイン語訳】 深海少女/Chica abismal

自分の勉強用。ざっくりとした仮訳。




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深海少女/Chica abismal

作詞/Letras: ゆうゆ(Yu-u-yu)
作曲/Compositor: ゆうゆ(Yu-u-yu)
編曲/Arr.: ゆうゆ(Yu-u-yu)


Estoy hundiendo en el mar de tristeza  No tengo ganas de abrir mis ojos
¿Caeré tan bajo por la eternidad y nadie me encontrará?

¿A dónde voy y qué hago? De repente una línea de luz entra por superficie del agua
Si alcanzo la luz puedo tocarla, pero pierdo la luz porque una ola la se ha llevado

¿Qué ha sido aquella luz?  Calida y deslumbra
Counter-illumination de inconsciencia  ¿Quién es mentiroso?

Chica abismal hundiendo aún más  Se ha encerrado en allende la oscuridad
Chica abismal pero quiere conocer porque ha encontrado a un chico atrayente

En éste lugar no había día ni noche Sin embargo paso muchas noches sin poder dormir
Tú era hermoso nadando con las alas abiertas grandes

Y otra vez vierte la luz  Cuando quedo cautivada la luz, nos encontramos las miradas
La mentirosa es yo...

Chica abismal Hundiendo expresamente las mejillas rojas en la oscuridad
Chica abismal Todavía el mar negro no ha permitido su valor de mostrar la corazón desnuda

Se ha manchado el vestido  Mi sonrie ha estado retorcido feo
No quiero enfrentarme con nadie ¡déjame ya!

Su sentimiento sin voz rebosa y se disuelve
Un momento después, de repente tu desaparece

La chica anciosa da prisa  La oscuridad se oculta él
La chica límite  Alcanza sus manos

“Mira, tú también has ocultado un color maravilloso

Chica abismal  él lleva la chica del brazo  canta marine-snow de felicitación
Chica abismal  quiere conocer más porque ha encontrado a un chico atrayente


Salgo de éste mal y levanto el vuelo ahora


悲しみの海に沈んだ私 目を開けるのも億劫
このままどこまでも堕ちて行き 誰にも見つけられないのかな

どこへ向かい、何をすれば?ふと射し込む一筋の光
手を伸ばせば届きそうだけど 波に拐(さら)われて見失った

あれは一体なんだったのかな あたたかくて眩しかったの
無意識のカウンターイルミネーション 嘘つきの誰?

深海少女 まだまだ沈む 暗闇の彼方へ閉じこもる
深海少女 だけど知りたい 心惹かれるあの人を見つけたから

昼も夜も無かったこの場所 なのに眠れない夜は続く
自由の羽を大きく広げて 泳ぐあなたは奇麗でした

そしてまた光は降り注ぐ 見とれていたら目が合った
気付いてこっちを振り返るあなたに 嘘つきな私

深海少女 わざわざ沈む 暗闇のさなかに赤い頬
深海少女 ハダカの心を見せる勇気 黒い海がまだ許さない

こんなに服は汚れてしまった 笑顔も醜くゆがんでいた
誰にも合わせる顔なんてないの もう放っておいてよ!

声にならない気持ちが溢れてとけた
次の瞬間、君が突然姿を消した

心配性の 彼女は焦る 闇が彼を隠しひとりきり
限界少女 その手を伸ばす

「ほらね、君も素敵な色を隠してた」

深海少女 腕を牽かれる 歌う祝福のマリンスノー
深海少女 もっと知りたい 心惹かれるあの人を見つけたから


この海を出て 今飛び立つの

未来の東京、はじまってた。

昨年華々しくオープンした、虎ノ門ヒルズに、ようやく行ってきました。


"Hello, Mirai Tokyo!"
未来の東京は、ここからはじまる。

2014年6月11日に開業した、超高層ビル。森ビル株式会社が建設、管理している。
52階建て、建築様式は「ポストモダン建築」らしい。
商業施設(レストランやショップ)とオフィス、レジデンス、ホテルが一体となった複合施設だ。ちなみに、レジデンスは、ホテルを経営している「アンダーズ東京」のサービスを受けることができる(有料)。自宅にいながら、ルームサービスを受けられるとか。庶民にはちょっと何の話か分かりませんね!ほてるぐらし!かな。
ちなみに、オフィスやレジデンスゾーンに入るには専用のパスが必要。51、52階のレストランに入るのも同様。セキュリティはばっちり!あんしんあんしん!


1階から4階の商業施設を一通り見て回ったところで、ちょっと一休み。
"THE 3RD CAFE by Standard Coffee" に入ってみた。
最近は金欠でもっぱらチェーンのカフェやファストフードばかりで凌いでいたので、ワクワク感も一入。刺激もありすぎると慣れてつまらなくなるのだ……はは。はははははは。
さて、注文した「ざらめ醤油ロール」とコーヒーは、セットで500円也。東京にしては安い。
どんな不思議な味のロールケーキだろう、とちょっと身構えていたが、なんのことはな、ただのカステラに生クリームを巻き込んだすいーつだった。「スイーツ」というより「すいーつ」って感じ。醤油要素どこに行った。美味しかったけど、なんだか拍子抜けした。
隣接する"ファミマ!!"と店内の雰囲気を統一しているのが良い。
ところで、この"ファミマ!!"、都心のど真ん中にあって、なかなかアグレッシブである。
柱一つ分と少々のスペースを使って書籍を展開しているのだが、話題の文芸書やビジネス書に交じって妙なもの――というよりは、ニッチな趣味のものが堂々と紛れ込んでいるのである。
平凡社ライブラリーの『レズビアン短編小説集』(1998年)、『古典BL小説集』(2015年)、河出文庫の『日本の童貞』(2003年)などなど。ちなみに、『日本の童貞』は三冊並べて置かれていた。なにか彼らに恨みでもあるのか。
先にも書いたが、書籍を置くスペースは極々限られている。その中で、あえてこういった人を選ぶような、買う時に少し躊躇うようなタイトルのものを置くとは、大胆だ。
というか、だ。そもそも、虎ノ門ヒルズに出入りするような人々に、『日本の童貞』ご本人様はいるんだろうか。ああ、ご本人様は買わないか。面白がって買う人はいるだろうね。バリバリ稼いでいるお姉さま方が、『古典BL小説集』と一緒に買っちゃうのかも。
……割とマジで謎のセレクション。本部からの指示にしろ、店員の好みにしろ、悪くないセンスだとは思うけど。ま、欲を言えば、近くにあったAoyama Flower Marketで薔薇や百合の花をさりげなく飾っていたらなおよかったかな。
こうした、アングラめいた趣味のものが新し物好きの人々の目に留まるようになった。そのことを「市民権を得た」と喜べばいいのか、「好奇の目に晒されている」と溜息を吐けばいいのか。
未来の東京、良くも悪くも、はじまってた。


小一時間虎ノ門ヒルズにいて感じたこと。
東京って、やっぱりスケールが大きい。
先日ふらっと行った湘南・鎌倉は、お洒落になりつつあるけど、なんだかこじんまりしている。特に鎌倉は建築規制の影響もあるのだろうけど……。
湘南・鎌倉地域に、虎ノ門ヒルズ的な物は建たないだろう、と思った。そして、建たなくて良い、とも。
同じ「お洒落」あるいは「高級感」を出すにしても、種類というか系統が違うんだろうなあ。

2015年8月8日土曜日

【感想】※ただしコミュ力の高い奴に限る。イケメンならなお良し。『僕たちは就職しなくてもいいのかもしれない』

岡田斗司夫『僕たちは就職しなくてもいいのかもしれない』PHP研究所、2014年。<新書>


年明け早々「七股疑惑」やら何やらでネットで大炎上した岡田氏の著書。サクッと読めて、なかなかに示唆に富んでいる。プライベートではいろいろとやらかしているようだが、評論自体は悪くない。
こういったスキャンダルは文学界隈でも芸能界隈でも往々にしてあることだし、今回も、人間性と著作物とは切り離して考える。
……どうしても、「なるほど」「こういう考え方もあるのね!」と感心した直後に、「だが七股だ」という言葉が脳裏を過ってしまうが。


さて、本書で強調されているのは、職や生き方に対する価値観の変化だ。

明治時代から今までは、「単職」つまり一つの会社で定年まで勤め上げることが主流だった。だから、できれば大企業に入った方が良い、と考えられていた(実は生涯年収を考えると中小企業と大企業の格差は小さいのだが、ここでは深く突っ込まない)。
しかし、これからは、「多職」の時代だという。江戸時代までの百姓(=たくさんの仕事・手伝いをする人々)*1のように、一つの仕事に頼り切らない、と言うのだ。百姓を例にすると、彼らは、農業を基本としつつ、草履を編んだり行商に出掛けたり工事現場で人足として働いたりと、農作物と現金収入を得ていた。これと同じように、例えば、50の仕事をしていて三分の一がダメになっても、なんとか食いつないでいけるのではないか、というアイデアらしい。
   *1 農民という意味での「百姓」の由来は、姓(かばね)を持つすべての人民をさすことから(ブリタニカ国際大百科事典より)。岡田氏の意図するところは分かるが、不正確である。


グローバル化の時代に、あえてローカル(地元・地縁・血縁)を重視する視点は好ましく思った。
さらに言えば、「グローバル」という分かったようで分からないふわふわした概念よりも、地に足の着いたローカル思考の方が、生物としての人間の生き方として自然なのではないか、と感じた。

岡田氏の掲げる「評価経済」も、互いの顔が認識できるコミュニティでこそ真価を発揮する。日本人は、明治以降の貨幣経済、特に高度経済成長期は、お金と引き換えに人間関係を希薄にして来た。でも、それは日本史上特異な時代・出来事であるという。
私は、都市で生まれ育った。概ね淡白な人間関係のなかで生きてきた。確かに、お金はいろいろなことを引き換えてきた――日々の食事(田舎の親戚の家には当然のように畑がある)の材料、独学心の低下(とりあえず教えてもらおうという安易な考え)などなど。
「商売人―客」という関係だけでとりあえず毎日を過ごせてしまうのだ。家族がいなくても、友達がいなくても、地域に知り合いがいなくても。でも、これって生きてて楽しいのだろうか。逆に、窒息しそうなほど濃密な人間関係の中で暮らすのは、果たして理想的なのだろうか。私たちは、それが嫌で都市に出てきたのではないか?

いずれにしろ、これからまた、人間関係が生きていく上で大切になる時代になっていくのかもしれない。安倍首相や経済界は頭が痛いだろうが、経済指標的に貧しくなって言っても、それがイコール人間的生活の貧しさになるわけではない。『里山資本主義』にも繋がっていく考えだけど、金銭では測れないものが表舞台に姿を現しつつあるのだ。日本はもうすでに明治以降、特にバブル以降の思考を変え、経済構造を根本的に変える時期に来ているのだと思う。その大きな機会が、3.11になるはずだった。はずだったのだが、そう上手くいかないものだ。



……ちなみに。
私はいま生きていて特別楽しいと思っているわけではない。
むしろ、毎日が霞んでいてつまらない。苦しい。
都市の片隅でひっそりと苦しんでいたとしても、誰にも気づかれない。
その恐ろしさを恐ろしいと思えない自分の感覚が、恐ろしい。



BGM
#ロミオとジュリエット
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