2015年12月31日木曜日

年松、門松、おそ松!

ご挨拶(呪)

2015年も残すところあと5時間となりました。みなさまいかがお過ごしでしょうか。
さて、私にとって本年はクソ忌々しい年となりました。

苦戦した就職活動、出ないやる気、二度目の留年決定。

堕ちるところまで堕ちた年でした。

そして、トドメがこれ。ここ二、三年比較的良好だった親子関係が、年末に来て悪化しました。
正面衝突です。いや、両親は衝突しようとしたのですが、私は逃げました。
私にだって、言って良いことと悪いことの区別くらいはつきます。
真面目な発言と厨二発言の線引きはイマイチ分かりませんが。

まあ全部ぜんぶ、あれもこれも私が悪いのです。
……思考停止でもしないと、自我を保てません。

アニメの話

・東京喰種√A →なんだかんだできちんとオチがついた、気がしないでもない。
・黒子のバスケ3期 →お疲れさまでした。OP, EDから気合十分!で良かったです。
・デュラララ!! →臨也が鍋パにハブられたあたりで挫折。

・血界戦線 →最後、ザップに弱音を吐くレオがよかった。
・響け!ユーフォニアム →さすが京アニクオリティ。青春モノとして良かった。

・青春×機関銃 →早々に挫折。主人公の声は良かった、気がする。
・オーバーロード →モモンガ様TUEEEEEE
・六花の勇者 →中南米っぽいデザインが気に入り、原作のラノベを購入。予想を裏切る展開で一気読みした。
・赤髪の白雪 →手に職を持った毅然とした少女は素敵や……。
・GOD EATER →分割1クール?様々な伝説を生み出したが、作画が素晴らしかった。
・乱歩奇譚 →仄暗い雰囲気が好きだった。新宿の焼身自殺を思わせる演出は衝撃的だった。

・ヤングブラック・ジャック →ベトナム戦争が重苦しい、面白いけど辛い話だった。
・K RETURN OF KINGS →伏見猿比古と八田美咲の和解シーンと最終話EDがよかった。BGMが好きだった。
・ハイキュー!!セカンドシーズン →かわいいよ谷地さん!潔子さんは相変わらずお美しい……。野郎共は青春してんな!
・スタミュ →綾薙ショウタイムでギャグ枠だと思ってたら意外と真面目な話だったでござる。クマシュンと海斗君推し。那雪が割と脳筋でワロタ。
・ワンパンマン →サイタマァァァァァァ!
・ノラガミARAGOTO →ひよりん大正義!
・おそ松さん →本年最大のダークホース。来年も期待してます。

以下雑感。

2013年頃からアニメを視聴し始めたにわかなので分からんのだけど、昭和を彷彿させる作品が目だった気が。
ヤングブラックジャック、ガンダム、乱歩奇譚、おそ松さん。セーラームーンはぎりぎり平成か。
単なるネタ切れなのか、昭和回帰なのか。分からないけど、まあ平成生まれには逆に新鮮に映るので面白いです。

黒子のバスケ、本当にお疲れさまでした。そして感動をありがとうございました。
3期の帝光編は見てて辛かったけど、虹村先輩が格好良かったのでなんとか持ちました……。
しかしそれにしてもOPの気合の入り方が半端なかった。

血界戦線はお洒落だったなあ。10.5話はニコ動で繰り返し見ました。OPとEDの入り方が秀逸だった。
お洒落と言えば、K RETURN OF KINGS。1話の冒頭は未だにBGM代わりに聞いてます。伏見猿比古の歪んだ友情が切なかった……それだけに、最後はお互いに成長して理解し合えてよかった。

おそ松さんは毎週笑わせてもらいました。放送話毎に老若男女が意見を表明して侃侃諤諤の議論、それもかなりまともな意見が多くて、放送外でも大いに楽しませてもらいました。また、平成生まれには分からないネタを教えてもらったりして、勉強になることもありました。


来年もよろしくお願いいたします。(祝)

NHK紅白歌合戦のカオスっぷりに唖然としながら2015年を終えようとしております。
それにしても節操ないなあ。
だけど、思い切りが足りない。アニメメドレー(?)は意味不明だった。そしてどうせ赤塚先生を出すならバカボンじゃなくておそ松くんにすればよかったのに。チキンめ。
ディズニーが出てきたときはドン引きした。スター・ウォーズが出てきたときは溜息しか出なかった……いくらディズニーに買収されたとはいえ、あんなんでいいのか。

今年はいろんなことに縛られた一年だったので、来年はNHKを見習ってカオスを振りまいて生きようと思います。できたら。

それではみなさま、よいお年を。

2015年12月2日水曜日

情報化社会と思考/感情の外注

最近になってアニメを見始めた、いわゆる「にわか」なので的外れな意見があったらすまない。
あーあ、こうやって先に保険を掛けておく方法、あまり好きじゃないんだけど炎上しても面倒だし……。建設的な意見や議論は好きなんだけどさ。
というわけで、今回の記事は「情報化社会におけるアニメ鑑賞の方法」をテーマに書こうと思う。

ぼっち(物理) or リアルぼっち~それが問題だ~

さて、みなさんはどのようにアニメを見ているだろうか。
1. 一人でリアルタイムor録画?
2. それとも、リアタイで実況板やツイッターを見ながら?
3. あるいは、ニコニコ動画などでコメント付きで見てる?

2.や3.を選んだあなたには「ファッションぼっち」の称号をあげましょう。ヒヒヒ
物理的に、つまり生身の人間とは隔絶しているかもしれないけど、精神的には名無しの誰かと繋がっているのだから。それって悪いことじゃないと思うの。本当にヤバくなると、ネットにアクセスすることも億劫になるからネ。誰か、ではあるけど誰でもない。そのくらいの希薄な、関係とも呼べないような人間関係っていうのも悪くないわよねェ。

ちなみに、私は断然、1.派だ。
一回目はコメントなしで視聴、その後に某まとめサイトでみんなのコメントをチェック、面白ければニコニコ動画でコメント付きで視聴する。
なにはともあれ、まずは真っ新な状態で視聴したい。
エンタメや創作物と向き合うときの楽しみや喜びとは、何か未知のものに出会えるところにあると考えているからだ。
だが、どうもそうではない人が一定数いるらしい。
楽しみ方は人それぞれだが、少し違和感を覚えることがあった。

過度な情報は主体性を失わせる。

「おそ松さん」9話を視聴した。
Aパート「チビ太のおでん」もいろいろ面白かったが、ここでは取り上げない。
問題は、Bパート「十四松の恋」だ。
ニコ動はまだ配信されていないので詳しくは書かないが、かなり解釈の幅を持たせた話だった。
ツイッターや某まとめサイトのコメント欄では様々な意見が飛び交うのもむべなるかな。
だが、中にはちょっといただけない暴言や暴論があった。

特に議論になっているのは、女の子とAV、そしておそ松の行動についての解釈だろう。
私は、初見時は素直に解釈したが、ネット上の意見を拾っていくうちに、別の解釈を知ったり、放送時に見逃したことに気付いて補完したりした。
このように、アニメを能動的に見る人もいれば、ぼーっと受動的に見て、適当にネットの意見を拾っておしまい、という人もいる。
必ずしも後者が悪い、とは言わないが、私からすると何が面白いのかが分からない。ふぃーりんぐ的なさむしんぐ?

だって、ネットに転がってる意見なんてそれこそ掃いて捨てるほどあるもの。

ここで唐突に社会批判をすると、情報化社会の到来で、私たちは思考/感情の外注ができるようになったのだ、と言える。
インターネットには、様々な情報が溢れている。のみならず、様々な感情も溢れかえっている。
小説の感想、映画の感想、修羅場の実況、悲痛な思い……
それらは、とても個人的なもののはずなのに、ネットに書き込まれた瞬間、消費されるもの(この言い方が嫌なら、共有されるもの、か)として個性を失う。そして、唯一無二の存在であるはずの書き込み主は、名無し、あるいはハンドルネームに成り下がるのだ。
消費、あるいは共有された感情は、まとめサイトやリツイートを通して増幅され、拡散されていく。その末に、ネットサーフィンをしている人に拾われて受動的な消費の補完として取り込まれる。
そう、誰かが何かを書き込んでいる限り、私たちは何かしらをネットから得ることができる。情報も、思考も、感情も。
拾って来たものを適当に組み合わせて提示すれば、いっぱしの評論家気取りの一丁上がり。評論家っていうか、編集者っぽいけど。無個性な編集者って、ダメだと思うけどね。

話を戻す。
「十四松の恋」の解釈を巡る議論で覚えた違和感は、自分で考えた形跡のない似通った意見が多かったこと、多様な解釈を認めない不寛容な意見が目についたこと、だ。
もちろん、ハッとするような良い意見や感想もたくさんあった。それでも、不寛容な意見が目についたことは残念であった。

馬の耳に念仏、愚か者の眼に正論。

ところで、先程の「ファッションぼっち」の件、みなさんはどう感じただろうか。
もし私が読者だったらかなり不快だ。
口調はウザいし、ヒヒヒ笑いもウザいし、上から目線だし。
でも、だからといって実際に脊髄反射のように「ウザい」とか「酷い」とか「悪口反対!」とか書き込むわけにはいかない。

一度、受け止めて、自分の頭で考える。

考えた上で、許されざる暴言だと思うならその旨を理性的に指摘するべきだ。
これが、表現・言論の自由が保障された場で発言するための最低限のマナーだと思うのだが、守れていない人が悪目立ちしていて困る……。

2015年11月25日水曜日

a rural fantasia イナカ・幻想曲

11月の上旬、ニコニコ動画にて、2014年夏クール放映アニメ「ばらかもん」の無料視聴キャンペーンがあったので、1年ぶりに視聴した(現在は第1話のみ無料、他は有料)。

半田先生イケメーン
なるちゃんかわいいーっ
というか島の女の子たちかわいすぎかー
ヒロシいい奴だー
島の人たちいい人ばかりー
大先生渋いー
奥さんチャーミングううううう
川藤かっこいいー
神崎憎めないー
………
……

うおおおおおおお五島列島に行ってみたいいいいいい
あ、五島列島って一般常識レベルで有名な土地らしいですね。
知らなんだ。
「五島列島って知ってる?」とドヤ顔で聞いた相手が家族で良かった。
他人様と話すときにドヤ顔するのは止めよう、今回は身内でタスカッタ。

というわけで、突然のマイブーム「ばらかもん」。
漫画を衝動買いした。アニメ放映分以降だけだけど(大人買いするにはまだ若過ぎるのさ……)。

書店で数冊ずつ買い込み、
乗車率250%超の電車に揺られて読む「ばらかもん」は一服の清涼剤。
ああ都会の冷たく荒んだ人間関係とは大違い、田舎は温かくていいなあ……


……旅行する分には。
自分が住めるとは思わないけど。

埋め立て地の砂場で遊び、ポケモンゲームに熱中し、こどものいえをバタバタ走り回ったもやしっ子。
おスポーツはおスクールでおテニスにおスイミングだった都会っ子のミー。

親戚の家が文字通りド田舎で、そこで数日厄介になったときに言われた一言。
「町の子は使えん」
碌に手伝いもせず野良仕事もせず使えないと。おっしゃるとおり。さーせん。
もうね、精神構造(メンタリティ)が違うと思いましたよ。
コミュニティは小さく閉鎖的。働き者ばかり。常に人がいる。
そう、常に人がいるのだ。
そして、絶え間ない噂話。
プライバシー?なにそれおいしいの?
そんな人たちと、よそ者であり「町の子」である私は相容れるのだろうか……
まあ当分は田舎に暮らす予定はないからいいけど。

田舎讃美歌をBGMに、国や地方自治体は老若男女を都市から田舎に送り込もうとしてるけど、私は結構懐疑的だ。
断っておくが、決して田舎を下に見ているとか都会の方がいいとか、そういう主張をしているわけではない。
私は幼少期、埋め立て地で育った。
川と言えば「せせらぎ」と名付けられた申し訳程度の噴水と流れる水のこと、蝉も碌にいないような人工的な環境で育った。だから、歴史や伝統、豊かな自然がある地上都市や田舎に憧憬を抱いている。
ただ、祖父母の代で上京、それ以来我が家は本家筋はおろか分家筋ともほとんど接点を持っていない。たった二世代の間に、密な人間関係に臆する、やわな町の子(と言っても政令指定都市に成り損ないの地方都市だが)が生まれてしまったのだ。
そんな世代が、田舎で上手くやっていけるのかな。あ、おまえみたいなコミュ障じゃなきゃ大丈夫だって?うん、そりゃよかった。心配して損したわ。


何が言いたいかって言うと、「ばらかもん」ってとても素敵なファンタジーだよねってこと。




しかし、一番のショックはなんといっても、半田先生と同い年だったってことだ。
まじかー
半田先生23歳かー
私とは人生の濃さが違うなー
最初は、悩める天才かと思ってたけど実際は努力の塊だってことが明示されてから話がどんどん面白くなってきてる気がするぜ。

2015年11月14日土曜日

【考察】平成風昭和的世界観「おそ松さん」


2015年秋アニメの問題児、「おそ松さん」のOP曲「はなまるぴっぴはよいこだけ」が公式リリースされた。
あの音ゲーっぽい音楽とナンセンスな歌詞、そしてサイケデリックなPVで、中毒になった視聴者も多いだろう。私も、アニメは毎話OPを飛ばさずスマホもいじらずちゃんと見ているクチだ。
さて、気になる「はなまるぴっぴはよいこだけ」Full ver. だが……。

狂ってやがる。

いやホントに。TV ver. のナンセンスさはあくまで放送用ということか。パッと聞いて意味が分からないのに、歌詞をじっくり見ていくと、背中に冷たいものが走る。アニメの世界観を表すのがオープニング主題歌だとしたら、現在進行形で私たちが視聴している「おそ松さん」は、実は私(たち)が認識しているものとは全然違うんじゃないか。
ただのナンセンス/シュールギャグアニメだと思っていたけど、もっとキツイ、ブラックジョークのアニメな気がする。そしてそれは、見返せば第1話から周到に伏線や布石が準備されていたのではないか。

復習

というわけで、アニメ「おそ松さん」1クール目が折り返し地点に来たので、復習がてら振り返ってみる。
伝説()の第1話と、第2話以降に話を分ける。

第1話について。

DVD未収録とネット配信停止を発表、視聴者をアッと驚かせた問題作。
主に女性ファンのツボを見事に突きつつそれ自体をネタとするハイセンスさを見せつけつつ、これでもかとパロディを詰め込んだ二十数分間にはツッコミどころはたくさんあったが、ここでは『進撃の巨人』のパロディのみ取り上げる。

巨人と化したチビ太に、おそ松が「よう…27年ぶりだな…」と呼びかけるシーン。
視聴した当初、この「27年」は、「おそ松くん」アニメ2期放送開始の1988年から27年ぶりの放送を指していると思っていた。が、どうにも違和感が拭えない。というのも、その直後のチョロ松のセリフ「微妙なワードを使わないで!」と微妙に噛み合わないのだ。(え、年数がキリ番じゃないってこと?30年ぶりだったら良かったの???としばらく首を捻った)

そこでネットをふらふらとしていたら見つけた、「おそ松くんの最終回が後味悪すぎる件」。複数の2ちゃんねるのまとめサイトに載っているのだが、画像が正しければ「少年サンデー」に掲載された「赤塚不二夫『あのキャラクターは、いま!?』」によれば、どうやら六つ子をはじめ主要キャラクターはほぼ死んだらしい(チビ太は死ななかったようだが)。そして、「あれから27年もたったのか……」というセリフがある。
いささかこじつけめいているのを承知で書けば、アニメのチョロ松のセリフは、放送時期ではなく死亡時期を指している、と考えた方が自然だ。また、そう考えれば、アニメ2作目で10代だったであろう六つ子が現在20代であることにも整合性がある。
また、トド松の「大丈夫、(赤塚先生は)もう死んでいるから」というセリフ。これがただの不謹慎ギャグなのか、登場人物が既に死んでいることの示唆なのか。

余談だが、私は第1話のDVD未収録は最初から仕組まれたものだと思う。
著作権とか下ネタとかだったら、明らかに第3話の方がマズい(から実際に一部差し替えになった)、不謹慎ネタはフジオプロ側からの提案だったらしいし。
さらに、大方「おそ松くんの最終回が後味悪すぎる件」も関係者が意識的に流した情報だと思っている。そして、考察を促しつつ掌の上で踊らせようって魂胆なんだろう。フッ、大いに踊ってやるぜ。だから第1話の再配信をどうかお願いしやす!
DVDに収録される予定の完全新作アニメーション。この作品の世界観を提示するような話になるのだろう。なかなかにショッキングなものになるかもしれん。

第2話以降について。

BS放送で修正の入った第3話、一部のカラ松ガールがモンペ化した第5話など現実世界に 実害 影響を及ぼしつつ話が展開している。実に楽しいよ。

さて、アニメ「おそ松さん」はSF(すこしふしぎ)な手法で製作されている。

まずは、ベースとなる世界観がある。これは現時点では不明だ。
そして、固定された設定がある。松野家の基本スペック(家族構成、六つ子の性格など)や、主要キャラクター(含・聖澤庄之助)。

以上を前提とした上で、各エピソードが1話(あるいは1放送分)完結で繰り広げられていく。イヤミの栄枯盛衰っぷりや、デカパンがブラック工場の社長になったり博士になったり、大騒動を巻き起こしたエスパーニャンコが次の話では全く出なかったり、というのは(本来の意味とはややずれるが)「スターシステム」の描き方と見る。

……ここまで書いていて気付いたが、各エピソードは完結してはいるが、独立はしていなかった。おそ松が競馬に勝つエピソードやブラック工場など繋がりはある。もしかしたら、あのブラック工場は、ハタ坊が所有してデカパンが監督を務めイヤミが末端の社員でアルバイトを家畜の如く使役していたところなのかもしれない。そして、六つ子が脱走したからイヤミはクビになったのかもしれない。
ということで、第2話以降については保留。最終話まで全て見ないと分からない。今後に期待。


昭和64年/平成元年

ところで、平成生まれの私にとって、昭和は完全な過去だ。歴史の教科書の世界だ。

しかも、バブル崩壊後に生まれた世代。高度経済成長期を生き残った「古き良き日本」なるものが、泡銭のジャラジャラという音と共に破壊された後に、ノスタルジーと共に美しくも歪に再生産された「昭和ライクなもの」を昭和を知らぬまま消費している。つまりなにが言いたいのかと言うと、私にとって(そしておそらく私たちの世代にとって)昭和はファンタジーの世界なのだ。

そんな昭和を代表する漫画をリメイクした、アニメ「おそ松さん」。

随所に仕込まれるネタは紛れもなく平成のものだが、作品全体の根底にある世界観というか精神は、昭和である、と感じる。時折見せる、「理解不能」なギャグの一抹の不気味さは、平成にないものなのか、単に私が普段ナンセンスものを見ないせいなのか……。


と、このように薄らと感じていた不気味さが、「はなまるぴっぴはよいこだけ」の歌詞をきっかけに、一気に増した。
もうハッキリといってしまおうか。
私は、「おそ松さん」は「おそ松くん」と同一キャラクターではない、と疑っている。
フグを食べた時に世界線を移動したのか、デカパンあたりが作った身代わりロボットなのか、はたまた壮大な夢落ちなのか(だとしたら誰の?)、そこまでは分からない。
歌詞で繰り返される「新型ギミック」からして、新しく作られた仕掛け/機械なのだろうか。「時限式カラミティ(災厄・惨事・疫病神)」というのも気になる。


とか言ってー
こういう考察を一気に水の泡にするのがギャグ作品の恐ろしさよ……。
でも、今までの話を見る限り張った伏線はきちんと回収しているし、丁寧な作りだから、もう何があっても納得できる気がする。

ただ、カラ松が参謀役だというのは未だに分からん……ただの不憫な次男でしかない。
第1話の格好良いカラ松はどこにいったのだ。
むしろ、カラ松のキャラが違い過ぎて第1話が配信停止になった説。

もどれない?嗚呼 かえれない?嗚呼


今年の夏は江戸川乱歩没後50年を記念したアニメ「乱歩奇譚」もあったし、政治でも昭和以来のゴタゴタもあったし、なんとなく全体的に昭和回帰なんですかね。先行き不透明だしね。

アニメ「おそ松さん」。2クール決定おめでとうございます。
全25話で、どう話を着地させるのか、とても楽しみだ。
ブラックジョーク路線で行って欲しい、むしろバッドエンドでもいいくらいだと思ってる。
視聴者の心に傷を残すぐらい、ありきたりの良いお話なんかじゃない、振り切れた最終回が見たい。
だって、
「この世に要るのはよいこだけ」
なんでしょ。
あのクズニートたちやイヤミや扶養家族選抜するような親や人の頭や尻に旗をぶっ刺そうとする友達は「この世」に「要る」のかな。あはは。

BGM
# A応P「はなまるぴっぴはよいこだけ」
# [Remix]はーこーぴっぴはよいこだけ Full Version【おそ松さん】 by 亜九静

2015年10月30日金曜日

捨てられた僕は。『いなくなれ、群青』

河野裕『いなくなれ、群青』新潮社、2014年。


新潮文庫NEXより昨年刊行されたキャラクターノベル。
出版社と書店がかなり力を入れて売り出したこともあり、一度は表紙を目にした人も多いと思う。
そして、つい最近、シリーズ二作目である『その白さえ嘘だとしても』が発売された(お茶の水の三省堂でうず高く積まれていたのは圧巻だった)。

「キャラクターノベル」を標榜するだけあって、主人公の七草をはじめ、各キャラクターの「キャラ」が丁寧に作り込まれている。今回は七草と真辺宇由にスポットが当てられているが、巻を追うごとに他のキャラクターの掘り下げが進められることに期待したい。

さて、「高校生」、という生物的に子どもから大人へと移行していく時期は、人間的にも一大転機を迎える時期でもある。
表面をなんとか繕いながら、内面の激動とどう折り合いをつけていくのか。
日本の多くの16歳から18歳は両親や学校に守られながら、この繊細極まりない時期を過ごす。
現在、日本には差し迫った外患は無い。無いことになっている。憲法違反の法案を巡って国会や各地で紛糾しているが、基本的には平和な日常を過ごせている。だから、内面のドロドロとした感情に向き合わざるを得なくなるのだ、と思う。
誰もが抱える、もやもや、いらいらした感情を勉学やスポーツ、あるいは学校行事に上手く昇華できれば万々歳、スクールカーストの最下層は免れる。
ここでうっかり妙な趣味――マイナーなもの――にハマってしまえば、学校生活のと雲行きがちょっとばかり怪しくなる。……正直、その時々のクラスメイトによるのだけど。このへんの話は、朝井リョウの『桐島、部活やめるってよ』が実に上手く描いているので、ここではこれ以上言うまい。

「高校生」。
まだ高校生になってないお嬢さんや坊や、なんだか変に期待してない?
今まさに高校生の君、毎日充実してる?
かつて高校生だったあなた、もう二度と戻れない三年間は、楽しかったですか?
私は、どうだったかな。今となっては最高の日々だったと思っているけど――。


ところで、この作品で一番印象的だったのは、「透明感」と「色」だ。
だからかな、百万回生きた猫のトマトジュースが、やけに鮮やかで印象的だった。まるで、血のようで……。


以下ネタバレ。


そろそろ内容についてコメントしようか。

「階段島」の住人は、捨てられた存在である。
成長の過程で、自分自身に「いらない」と切り離されてしまった人格の一部分。
だから、登場人物は皆、どこか過剰なのだ。尖っている。幸か不幸か、島の住人は、お互いの過剰な部分を「個性」だとして受け入れている。そこに少しだけ救われた気持ちになる。それと同時に、ラストの七草の心情を考えると、果たして彼らは幸せになり得るのだろうか、と不安になる。このシリーズの「ハッピーエンド」は、一筋縄ではいきそうにない。まあバッドエンドは好物なのでどちらでも構わないけど……。

それにしても、「キャラクターノベル」とはよく言ったもので、いかにキャラを立てて物語を紡いでいくのかが楽しみである。「キャラクターありき」とは言わないまでも、キャラクターが最大限魅力的に動けるような作品になって欲しい。


2015年10月27日火曜日

海老名市立中央図書館

10月1日にリニューアルオープンした、海老名市立中央図書館(神奈川県)に行ったときの感想。

TSUTAYAなどを運営するCCCと手を組み、サービス向上を図ろうとしていたが、一番肝心な選書で揺れている、との情報を得たので、冷やかしに行くことにした。10月7日に行ったきりなので、いろいろ曖昧です……。


まずは入り口。
ライセンス契約を結んでいるであろうスターバックスを左手に、正面や右手にはTSUTAYAが売っている雑誌をメインとした書籍と雑貨がドーンと陳列。ここは図書館と言うよりは書店なので、ガヤガヤとした雰囲気。子連れの人が気軽に来れそうだけど、海老名市民の税金で賄われているであろう公立の建物・サービスで商売っ気を露骨に出していることには違和感を覚えました。
書籍は、比較的新しい単行本や文庫が中心。あと雑誌の最新号。

2階に上がれば、もう図書館。
ただし、場所によっては1階の喧騒やBGMが響いてうるさい。

3階は広い学習スペースがある。席数は数えていませんが、公立図書館にしては多いのかな。
夕方になると、制服姿の高校生でいっぱい。部活の道具を引っ提げた子が多かった印象。
元々図書館を活用する土地柄なのか、新しいものができたのでとりあえず見に来たのかは不明。まあ民間業者の手を借りるくらいだから後者だろうな……。
ひとしきりキャアキャアギャーギャー騒いだ後は、「席がないねえ」とあっさり帰った模様。完全に高校にいるときのノリだった。私は真面目に勉強していなかったし、懐かしかったので、生暖かく見守っていました。本当はTSUTAYAの制服を着たスタッフだか司書さんだかが注意すべきなんですけどね。
営利団体だと注意しにくいのかな、気付かなかっただけかな。この対応は少し気になりますね。

4階は「こどもとしょかん(キッズライブラリー)」。
プラネタリウム跡地。
父子が仲良く電車の模型と一緒に写真を撮っていて微笑ましかったです、まる

そして、地下1階。
秘密基地みたいでした。小説がずらっと並んでいて圧巻。雰囲気が良い。

全体的な感想は、「取り組みとしては面白いが、長続きするかは怪しい」。
既に散々指摘されていることですが、書籍の分類法が独特で、図書館に慣れている人は戸惑うでしょう。一応、検索機はありますが、そういう問題でもないような。若者はすぐに順応できそうですが、図書館の利用者はシニア層が多いことを考えると、その辺どうなんでしょう。

2015年10月26日月曜日

哲学的ゾンビの憂鬱

挨拶的な何か、

木枯らしが吹き荒ぶ季節になりましたね。
西の空がなんとも言えず美しい。
沈みゆく日が、雲を淡い桃色に染め、山は影に、空は水平線から大きな虹のような色の七変化を作り出している。
この文章を書き終える頃、もう一度西方を眺めれば、日は山影に沈み、僅かに残っている橙色がどんどん暗闇に飲まれていく。
……お久しぶりです。前回の記事は残暑の厳しい頃でしたね……。

あと近況とか

最近、ブクログなるものを始めてみました。
こちらに記載していて本の感想をお引越しさせるか検討中です。
でも、このブログから本の話題を取ったら何にも残らないので、本以外の記事が書けるようになるまでは保留かな……。

哲学的ゾンビは何を知っているのか

「哲学的ゾンビ」という思考実験をご存じだろうか?
……ご存じ、ないのですか!?
彼/彼女こそ、「物理的化学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、意識(クオリア)を全く持っていない人間」、哲学的ゾンビちゃんです!

こらー!真面目にやランカ!

……さて。
「哲学的ゾンビ」、にちゃんねる哲学板あたりで取り上げられているのを偶然目にして知りました。
ちょっと心に引っ掛かることがあったので、ググったり飲茶氏の書籍をパラパラ捲ったりしてみることに。
この思考実験で重要なのは、意識(クオリア)の有無。
そして、その意識(クオリア)は人間の機能的には不自然である、らしい。
意識がなくても、人間は社会生活をきちんと送れるという。例えば、「抓られた」ら「痛いと感じる」という肉体的感覚、「格好良い先輩とお話しできた」ら「女友達とキャーキャー騒ぐ」という反応。
「美しい夕日を眺め」て、「綺麗と呟く」あるいは「誰かに伝えようと文章や絵で描いてみる」。
これらは人間様の特権でもなんでもなく、将来精密なロボットが再現できそうなことだ。もちろん、そのロボットに意識はないだろう。

そもそも。
私は誰?アイデンティティって何?私のオリジナリティって?
人間は、生まれる前から、ある程度どう成長するか、心身共に予想が付く生き物だ。
ホモ・サピエンス・サピエンスそのものが内包する特徴。両親・祖父母をはじめ親戚からの遺伝。そして、育つ環境。
私の場合、生まれた時は父方の親戚によく似た見た目をしていた。
中学から高校にかけて、人並に反抗期を迎えた。多少、暴力的な衝動があり、夜な夜な自室で枕を殴りつけた。ひょんなことから、祖母が若い頃、怒り狂って皿をぶん投げていたことを知った。激しい気性は血筋らしい。
知らない人に対して無意識のうちに猫を被ってしまう性格も祖母譲りだ。大したことが無くても大袈裟に騒ぎ立ててしまう性分、学問好きな傾向、運動好き、etc.どれも「すみかのオリジナル」ではなく「親戚の誰かと似ている」。
冷静に考えれば、何にも依らない、100%のオリジナルである人間なんて存在しない。それは、人間ではない。
でも、私という存在のアイデンティティは何かと問われると、一気に不安定になる。
だって、先に挙げたような特徴(=情報、データ)をぎゅっと詰め込んだヒト型の何かが現れたら。
私とソイツのどちらが本物か、分からないじゃないか。

哲学的ゾンビの問題について考え始めると、背筋が寒くなる。
考えれば考えるほど、世界が、自分が、不確かな存在となっていく。

ところで、哲学的ゾンビは、ゾンビ自身が「意識(クオリア)を持たないこと」を知っているのだろうか?
例えば、高校生、人間だったら思春期真っ只中のゾンビちゃんに、
「実はあなたは哲学的ゾンビで、自分の意識(クオリア)なんてないのよ」
と言ったら、どうなるだろうか?
戸惑うか、泣き出すか、鼻で笑うか、それとも、悩み始めちゃって「鬱」になるか。
……哲学的ゾンビ狩り、なんてことがあったらやってみたいなあ。




<参考文献>
飲茶『哲学的な何か、あと科学とか』二見書房、2006年。

BGM
# God knows...
# 【MEIKO】咲音メイコ「星間飛行」




2015年9月7日月曜日

【感想】資本主義の、その先へ。『里海資本論』

●井上恭介、NHK「里海」取材班『里海資本論 日本社会は「共生の原理」で動く』KADOKAWA2015年。


前作『里山資本主義――日本経済は「安心の原理」で動く』(2013)が良書だったので、期待して購入。
軽くおさらいしておくと、『里山資本主義』では、「マッチョな経済」の限界を指摘、GDPなどの数字では表せない豊かさを提示してみせた。ただし、タイトルが表す通り、資本主義自体は否定しなかった。あくまで、現行の経済システム(=資本主義)を改善しつつ、マネーに依存しないサブシステムの在り方を、木材などの例を挙げて説明、提案するにとどまっていた。
経済政策を重んじる安倍首相を始め、経済界の人々は憤慨するかもしれない内容だが、「経済ってなんだっけ?」という原点に立ち返るときに、案外重要な視点になると思う。通勤、通学の電車内で読み切れる分量だ。また、文章も読みやすいので、オススメ。


さて、今回取り上げる『里海資本論』について。
まず注目したいのが、タイトル。
『里山資本主義』と『里海資本論』。そう、資本主義から資本論へ、進化したのだ。
「資本論」といえば真っ先に思い浮かぶのが、マルクスやエンゲルスらによる『資本論』だ。資本主義と対立する、共産主義、社会主義などを連想させる用語を、なぜ用いたのか。取材班は、資本主義に見切りをつけたのか?
そうではない。「マッチョな経済」、つまり資本主義のどん詰まりの末に生まれざるを得なかったのが、「里海資本論」だったのだ。
「マッチョな経済」では、経済成長の踏み台として、地球環境を犠牲にしてきた。しかし、人間も地球に住む生物の一種である以上、破壊された自然の中では生きていけない。つまり、地球環境も経済成長も、搾取する一方では、いずれ必ず限界を迎える。資本主義は、限界を伴うのだ。そして、その限界は、もしかすると人類の滅亡、地球の破壊なのかもしれない。
そんな資本主義経済に異を唱えたのが、19世紀のマルクスやエンゲルスであり、21世紀の「里海資本論」である。

「はじめに」で紹介された「里海」「SATOUMI」の学術用語としての定義は、「人手が加わることによって生物多様性と生産性が高くなった沿岸海域」だ。
今作の主な舞台は、瀬戸内海。高度経済成長期に「死の海」と成り果てた瀬戸内海の復活と再生を軸に、話が展開する。
工場排水などの化学物質で汚染された「死の海」を復活させたのは、地元の漁師と水産試験場(現・水産研究所)の研究員ら。廃れかけた伝統の中から、復活の糸口を探っていく。ここで重要なのが、対抗する化学物質を投入したり排水制限したりといった一時的な対処療法で終わらなかったこと。カキ筏やアマモなど、地元の人たちでさえ忘れかけていた伝統的な営みに地道に取り組んできたことこそが、復活のカギとなった。伝統の一部が復活したことにより、連鎖的に昔の記憶が浮かび上がり、人と自然が有機的に関わっていくことになる。特に村上海賊の末裔の活躍ぶりには舌を巻いた。

「里海」「SATOUMI」これら学術用語は、「瀬戸内海生まれ日本発」だという。
なぜ、日本発なのか。
それは、宗教観にも結び付いているという。
資本主義が、キリスト教という一神教を背景に持つことは有名である。そして、科学によって自然を屈服させ、搾取することに違和感を覚えないのも、一神教的発想であることは否めない。
日本人は、ときに「無宗教だ」と言われることもあるが、基本的には八百万の神々を信仰している。山や川、海といった自然を祀り、一粒の米に七人の神々を見る。神々と人間は、自然の中で共存しているのだ。
日本的発想に基づけば、人間も、神々のおわします自然の一員として、自然に働きかけることは悪いことではない。むしろ、自然環境を破壊したのなら、積極的に修復する手助けをすべきなのである。アダム=スミスが期待したような、一神教的「神の手」が修復してくださることはないのだから。


私は、都市に住む人間だ。
遠い親戚で田舎に住む人たちはいるが、交流はあまりない。
だから、『里山資本主義』を読んだときも、『里海資本論』を読み終わったときも、大いに魅力を感じつつも、どこか他人事であると感じたことを、正直に告白しよう。あと、些かユートピア過ぎやしないかと思ったことも。
都市に住み、資本主義を象徴するお金で生活する。食材、水道、光熱、書籍、パソコンなどの電子機器。大学や塾。博物館や美術館。第一次産業品も第二次産業品も第三次産業のサービスも、全部全部お金で買っている。お金でモノやサービスを消費することに、あまりにも慣れ過ぎている。衣食住、全て顔も知らない誰かに任せっきり。これは、生物の生き方としてはとても危うく、もっと言ってしまえば、間違っていると心のどこかで思いつつも、この生活を手放す勇気はない。
それでも、世界の最先端で、こういった動きがあることを知れたことで大いに勉強になった。
本書に出てくる人は、老若男女を問わず、皆元気そのもの。都市で精神が半分死にかけている私には、とっても眩しい。
田舎暮らしって、カッコイイ、楽しそう。
多くの人が本心からそう思い、都市から田舎へ移住する流れが決定的になったとき、日本社会はまた新たな局面に入っていくのだろう。

まだまだ私は、その流れには乗れない。どうして乗れないのかが分かれば、地方創生の微力な一助になる気がする。が、この記事とは関係ないので、今回はここまで。


里海資本論 日本社会は「共生の原理」で動く (角川新書) amazon.com

2015年8月13日木曜日

【スペイン語訳】 深海少女/Chica abismal

自分の勉強用。ざっくりとした仮訳。




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深海少女/Chica abismal

作詞/Letras: ゆうゆ(Yu-u-yu)
作曲/Compositor: ゆうゆ(Yu-u-yu)
編曲/Arr.: ゆうゆ(Yu-u-yu)


Estoy hundiendo en el mar de tristeza  No tengo ganas de abrir mis ojos
¿Caeré tan bajo por la eternidad y nadie me encontrará?

¿A dónde voy y qué hago? De repente una línea de luz entra por superficie del agua
Si alcanzo la luz puedo tocarla, pero pierdo la luz porque una ola la se ha llevado

¿Qué ha sido aquella luz?  Calida y deslumbra
Counter-illumination de inconsciencia  ¿Quién es mentiroso?

Chica abismal hundiendo aún más  Se ha encerrado en allende la oscuridad
Chica abismal pero quiere conocer porque ha encontrado a un chico atrayente

En éste lugar no había día ni noche Sin embargo paso muchas noches sin poder dormir
Tú era hermoso nadando con las alas abiertas grandes

Y otra vez vierte la luz  Cuando quedo cautivada la luz, nos encontramos las miradas
La mentirosa es yo...

Chica abismal Hundiendo expresamente las mejillas rojas en la oscuridad
Chica abismal Todavía el mar negro no ha permitido su valor de mostrar la corazón desnuda

Se ha manchado el vestido  Mi sonrie ha estado retorcido feo
No quiero enfrentarme con nadie ¡déjame ya!

Su sentimiento sin voz rebosa y se disuelve
Un momento después, de repente tu desaparece

La chica anciosa da prisa  La oscuridad se oculta él
La chica límite  Alcanza sus manos

“Mira, tú también has ocultado un color maravilloso

Chica abismal  él lleva la chica del brazo  canta marine-snow de felicitación
Chica abismal  quiere conocer más porque ha encontrado a un chico atrayente


Salgo de éste mal y levanto el vuelo ahora


悲しみの海に沈んだ私 目を開けるのも億劫
このままどこまでも堕ちて行き 誰にも見つけられないのかな

どこへ向かい、何をすれば?ふと射し込む一筋の光
手を伸ばせば届きそうだけど 波に拐(さら)われて見失った

あれは一体なんだったのかな あたたかくて眩しかったの
無意識のカウンターイルミネーション 嘘つきの誰?

深海少女 まだまだ沈む 暗闇の彼方へ閉じこもる
深海少女 だけど知りたい 心惹かれるあの人を見つけたから

昼も夜も無かったこの場所 なのに眠れない夜は続く
自由の羽を大きく広げて 泳ぐあなたは奇麗でした

そしてまた光は降り注ぐ 見とれていたら目が合った
気付いてこっちを振り返るあなたに 嘘つきな私

深海少女 わざわざ沈む 暗闇のさなかに赤い頬
深海少女 ハダカの心を見せる勇気 黒い海がまだ許さない

こんなに服は汚れてしまった 笑顔も醜くゆがんでいた
誰にも合わせる顔なんてないの もう放っておいてよ!

声にならない気持ちが溢れてとけた
次の瞬間、君が突然姿を消した

心配性の 彼女は焦る 闇が彼を隠しひとりきり
限界少女 その手を伸ばす

「ほらね、君も素敵な色を隠してた」

深海少女 腕を牽かれる 歌う祝福のマリンスノー
深海少女 もっと知りたい 心惹かれるあの人を見つけたから


この海を出て 今飛び立つの

未来の東京、はじまってた。

昨年華々しくオープンした、虎ノ門ヒルズに、ようやく行ってきました。


"Hello, Mirai Tokyo!"
未来の東京は、ここからはじまる。

2014年6月11日に開業した、超高層ビル。森ビル株式会社が建設、管理している。
52階建て、建築様式は「ポストモダン建築」らしい。
商業施設(レストランやショップ)とオフィス、レジデンス、ホテルが一体となった複合施設だ。ちなみに、レジデンスは、ホテルを経営している「アンダーズ東京」のサービスを受けることができる(有料)。自宅にいながら、ルームサービスを受けられるとか。庶民にはちょっと何の話か分かりませんね!ほてるぐらし!かな。
ちなみに、オフィスやレジデンスゾーンに入るには専用のパスが必要。51、52階のレストランに入るのも同様。セキュリティはばっちり!あんしんあんしん!


1階から4階の商業施設を一通り見て回ったところで、ちょっと一休み。
"THE 3RD CAFE by Standard Coffee" に入ってみた。
最近は金欠でもっぱらチェーンのカフェやファストフードばかりで凌いでいたので、ワクワク感も一入。刺激もありすぎると慣れてつまらなくなるのだ……はは。はははははは。
さて、注文した「ざらめ醤油ロール」とコーヒーは、セットで500円也。東京にしては安い。
どんな不思議な味のロールケーキだろう、とちょっと身構えていたが、なんのことはな、ただのカステラに生クリームを巻き込んだすいーつだった。「スイーツ」というより「すいーつ」って感じ。醤油要素どこに行った。美味しかったけど、なんだか拍子抜けした。
隣接する"ファミマ!!"と店内の雰囲気を統一しているのが良い。
ところで、この"ファミマ!!"、都心のど真ん中にあって、なかなかアグレッシブである。
柱一つ分と少々のスペースを使って書籍を展開しているのだが、話題の文芸書やビジネス書に交じって妙なもの――というよりは、ニッチな趣味のものが堂々と紛れ込んでいるのである。
平凡社ライブラリーの『レズビアン短編小説集』(1998年)、『古典BL小説集』(2015年)、河出文庫の『日本の童貞』(2003年)などなど。ちなみに、『日本の童貞』は三冊並べて置かれていた。なにか彼らに恨みでもあるのか。
先にも書いたが、書籍を置くスペースは極々限られている。その中で、あえてこういった人を選ぶような、買う時に少し躊躇うようなタイトルのものを置くとは、大胆だ。
というか、だ。そもそも、虎ノ門ヒルズに出入りするような人々に、『日本の童貞』ご本人様はいるんだろうか。ああ、ご本人様は買わないか。面白がって買う人はいるだろうね。バリバリ稼いでいるお姉さま方が、『古典BL小説集』と一緒に買っちゃうのかも。
……割とマジで謎のセレクション。本部からの指示にしろ、店員の好みにしろ、悪くないセンスだとは思うけど。ま、欲を言えば、近くにあったAoyama Flower Marketで薔薇や百合の花をさりげなく飾っていたらなおよかったかな。
こうした、アングラめいた趣味のものが新し物好きの人々の目に留まるようになった。そのことを「市民権を得た」と喜べばいいのか、「好奇の目に晒されている」と溜息を吐けばいいのか。
未来の東京、良くも悪くも、はじまってた。


小一時間虎ノ門ヒルズにいて感じたこと。
東京って、やっぱりスケールが大きい。
先日ふらっと行った湘南・鎌倉は、お洒落になりつつあるけど、なんだかこじんまりしている。特に鎌倉は建築規制の影響もあるのだろうけど……。
湘南・鎌倉地域に、虎ノ門ヒルズ的な物は建たないだろう、と思った。そして、建たなくて良い、とも。
同じ「お洒落」あるいは「高級感」を出すにしても、種類というか系統が違うんだろうなあ。

2015年8月8日土曜日

【感想】※ただしコミュ力の高い奴に限る。イケメンならなお良し。『僕たちは就職しなくてもいいのかもしれない』

岡田斗司夫『僕たちは就職しなくてもいいのかもしれない』PHP研究所、2014年。<新書>


年明け早々「七股疑惑」やら何やらでネットで大炎上した岡田氏の著書。サクッと読めて、なかなかに示唆に富んでいる。プライベートではいろいろとやらかしているようだが、評論自体は悪くない。
こういったスキャンダルは文学界隈でも芸能界隈でも往々にしてあることだし、今回も、人間性と著作物とは切り離して考える。
……どうしても、「なるほど」「こういう考え方もあるのね!」と感心した直後に、「だが七股だ」という言葉が脳裏を過ってしまうが。


さて、本書で強調されているのは、職や生き方に対する価値観の変化だ。

明治時代から今までは、「単職」つまり一つの会社で定年まで勤め上げることが主流だった。だから、できれば大企業に入った方が良い、と考えられていた(実は生涯年収を考えると中小企業と大企業の格差は小さいのだが、ここでは深く突っ込まない)。
しかし、これからは、「多職」の時代だという。江戸時代までの百姓(=たくさんの仕事・手伝いをする人々)*1のように、一つの仕事に頼り切らない、と言うのだ。百姓を例にすると、彼らは、農業を基本としつつ、草履を編んだり行商に出掛けたり工事現場で人足として働いたりと、農作物と現金収入を得ていた。これと同じように、例えば、50の仕事をしていて三分の一がダメになっても、なんとか食いつないでいけるのではないか、というアイデアらしい。
   *1 農民という意味での「百姓」の由来は、姓(かばね)を持つすべての人民をさすことから(ブリタニカ国際大百科事典より)。岡田氏の意図するところは分かるが、不正確である。


グローバル化の時代に、あえてローカル(地元・地縁・血縁)を重視する視点は好ましく思った。
さらに言えば、「グローバル」という分かったようで分からないふわふわした概念よりも、地に足の着いたローカル思考の方が、生物としての人間の生き方として自然なのではないか、と感じた。

岡田氏の掲げる「評価経済」も、互いの顔が認識できるコミュニティでこそ真価を発揮する。日本人は、明治以降の貨幣経済、特に高度経済成長期は、お金と引き換えに人間関係を希薄にして来た。でも、それは日本史上特異な時代・出来事であるという。
私は、都市で生まれ育った。概ね淡白な人間関係のなかで生きてきた。確かに、お金はいろいろなことを引き換えてきた――日々の食事(田舎の親戚の家には当然のように畑がある)の材料、独学心の低下(とりあえず教えてもらおうという安易な考え)などなど。
「商売人―客」という関係だけでとりあえず毎日を過ごせてしまうのだ。家族がいなくても、友達がいなくても、地域に知り合いがいなくても。でも、これって生きてて楽しいのだろうか。逆に、窒息しそうなほど濃密な人間関係の中で暮らすのは、果たして理想的なのだろうか。私たちは、それが嫌で都市に出てきたのではないか?

いずれにしろ、これからまた、人間関係が生きていく上で大切になる時代になっていくのかもしれない。安倍首相や経済界は頭が痛いだろうが、経済指標的に貧しくなって言っても、それがイコール人間的生活の貧しさになるわけではない。『里山資本主義』にも繋がっていく考えだけど、金銭では測れないものが表舞台に姿を現しつつあるのだ。日本はもうすでに明治以降、特にバブル以降の思考を変え、経済構造を根本的に変える時期に来ているのだと思う。その大きな機会が、3.11になるはずだった。はずだったのだが、そう上手くいかないものだ。



……ちなみに。
私はいま生きていて特別楽しいと思っているわけではない。
むしろ、毎日が霞んでいてつまらない。苦しい。
都市の片隅でひっそりと苦しんでいたとしても、誰にも気づかれない。
その恐ろしさを恐ろしいと思えない自分の感覚が、恐ろしい。



BGM
#ロミオとジュリエット
#モザイクロール

2015年8月1日土曜日

【感想】よく晴れた群青色の空の日に読んで。『ギンカムロ』

美奈川護『ギンカムロ』、集英社、2015年。



花火をめぐる物語。
花火職人という、珍しい、だが夏にぴったりの題材だ。

舞台は、日本の田舎のどこか。たぶん、海はなく、山間に清流が流れる、美しくも閉鎖的な村だ。
「高峰煙火工業」四代目・高峰昇一は、高校卒業以来、東京でフリーター生活を送りつつも、心の奥底では「花火が好き」だという思いを燻らせ続けていた。
彼が小学生だった頃、家業の煙火製造所の爆発事故で両親を亡くしたことがトラウマとなっていて、花火は録画したものを無音で見るだけになっていた。ところが、祖父で二代目の高峰伊織からの呼び戻しをきっかけに、再び花火そのものに向き合うことになる。
伊織の弟子になって七年目になる謎めいた女性・風間絢、お祭り好きのチャラ男・申島健斗、IT系ブラック企業で過労死寸前まで追い詰められて逃げ出してきた年齢不詳の男・井口多聞。
祖父への反発心を覚えつつも、「高峰煙火工業」で働く一癖も二癖もある謎めいた若者たちと共に花火に向き合うことで、花火職人としての自覚と覚悟を固めていく昇一。それは同時に、過去との対峙であり清算であり、祖父に対する真の理解であり、赦しであり、慰めであった。


決して楽しく愉快なお話ではない。くすりと笑えるシーンはあるが(実際のところ、あっけらかんとした申島がいないと重苦しくなりすぎ、彼は良いキャラクターだ)、基本的には静かで、淡々としていて、仄暗い。だからこそ、花火にまつわる色の描写が際立ち、瞼の裏にそのイメージが鮮烈に浮かび上がるのだ。

この物語の登場人物は、みんな心に傷を――いや、闇を抱えている。
事故で両親を亡くした昇一、息子夫婦と孫娘を失くした伊織。
家のプライドに翻弄された挙句「災厄を持ち込んだ」と疎まれた絢、最愛の娘を失くした高良瀬。
彼らの傷を癒し、闇を照らすのが、花火だ。
花火の中でも、タイトルにもなっている「銀冠(ギンカムロ)」の銀は鎮魂の色だそう。
大切な人を失くした彼らだけじゃない。依頼人の若いカップルも、西宮夫婦も、それぞれ花火を上げることに、祈りにも似た気持ちを込めている。

夏至をとっくに過ぎたとはいえ、今の季節、つまり夏は一年で最も生命力の強い季節だと思う。
太陽はギラギラと輝き、蝉をはじめ様々な虫は大合唱し、雑草はものすごい勢いで生い茂り、街路樹の艶やかな葉や花が街に溢れている。街ですらそうなのだ。村にいたら、もっと力強い生命を感じ取れるだろう。
同時に、夏はまた、一年で最も「死」を感じさせる季節だ、と思う。
虫の死骸がそここに転がり落ち、水溜りは腐敗して濁っている。伸びすぎた樹木が無造作に切られていることもある。
そして、ヒロシマ、ナガサキ、オキナワ、第二次世界大戦敗戦。
「死」を連想する機会は、冬より夏の方が多い。唐突に、そんなことを考える。普段はなんとなく隠れていたり隠されていたりする「死」が、白日ならぬ炎天下に晒されるのだ。

最初から最後まで「死」が陰に陽にちらつく物語を読みながら、いったい日本人にとって夏とはどういう季節なんだろう、と思った。生を楽しむ季節なのか、死を悼む季節なのか。
両方だろう、と思う。
生と死は隣り合わせなのだから。


集英社BOOKNAVI

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2015年7月27日月曜日

【感想】まずは部屋から出ようか。『家出のすすめ』

この炎天下、冷房の効いた部屋から出たくないでござる。


寺山修司『家出のすすめ』角川書店、1972年。

”愛情過多の父母、精神的に乳離れできない子どもにとって、ほんとうに必要なことは何か?「家出のすすめ」「悪徳のすすめ」「反俗のすすめ」「自立のすすめ」と四章にわたり現代の矛盾を鋭く告発する寺山流青春論。”――本書より。


……ねえ、寺山修司、って誰?


2015年7月3日金曜日

叫べ、笑え、踊れ、そして涙を流せ<中編>

 時々、なぜ私は生きているのだろう、と考える。
 小さい頃から疑問に思っていたが、学校生活が充実している間はあまりそのことで悩むことはなかった。引き籠るようになって、くよくよと悩むことになった。
 何度考えても、私自身に生きる積極的な理由は導き出せなかった。(正直なところ、今でもよく分からない)。哲学や心理学といった学問的アプローチをすればもっともらしい理由付けができたかもしれないが、小難しい理論で無理に納得するのは嫌だった。また、宗教に走ることもなかった。別に救いを求めているわけじゃない。

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 死んだような日々は淡々と続いた。
 最低限のアルバイトをこなして、ちょこっと講義に出て、帰宅して、ご飯を食べて、寝る。誰とも喋らない日はしょっちゅうあった。
 日がな一日ぼーっと過ごして物を考えなくなったせいで、自分がどんどん馬鹿になっていくのが分かった。固有名詞が出なくなり、感情の説明ができなくなった。一度、勇気を振り絞って出席した同窓会では「最近読んだ面白い本」のタイトルが一切出て来なくて唖然とした。そう、本を読んでもアニメを見ても、全然身が入らないのだ。文字や映像から機械的に快楽を受け取り、消費し、そのまま自分の血肉になることなく抜けていく。まるで動物のようだった。
 
 さすがにこのままではいけない。
 無感動な毎日を送っている間も、心の片隅に残った最後の良心みたいなものが喚き続けているのには気づいていた。
 この負のスパイラルから抜け出すにはどうしたら良いのか。
 当面の目標は、「人と普通に話せるようになること」だ。目と目を合わせて話す。当時の私にはとんでもなく難しく思えた。
 劣等感とは、つまり、自分に自信がないということだ。なぜ自分に自信がないかと言えば、いつも周囲の目を気にしてしまうからだ。何かに熱中している時は、周囲が何を言おうと気にならないものだが、意識が過剰に自分に向いてしまっている時は、どうしても周囲の目が気になってしまう。そして、必要もないのに、勝手に比較して、自分の出来の悪さに失望してしまうのだ。
 
 誰も知らない、見知らぬ土地へ行こう。ただの通りすがりの旅人になるのだ。
 それは天啓のようだった。
 知り合いに会うから、つまらない見栄を張ろうとするのだ。それならば、私のことを何も知らない人たちのところへ行けばいい。そこで人と話す練習をしてみようじゃないか。
 今考えると、いろいろ飛躍している気もするが、とにかく私は西を目指して旅立つことにした。
 
 当然のことだが、旅に出たからといってすぐに気持ちが変わるわけではない。
 相変わらず、喜怒哀楽のうち喜・怒・楽が欠落したままだった。それでも、移動するにつれて心に垂れ込めていた雲が徐々に晴れていくような気がした。
 
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 徳島県に祖谷という地がある。
 国指定重要有形民俗文化財のかずら橋を見ようと訪れた。平家の落武者が架けたという植物で編んだ吊り橋だ。日本三奇橋の一つらしい。
 その日は生憎の雨で、橋を渡るためのチケットを買うと、レインコートをしっかりと羽織り直して恐る恐る橋に足を乗せた。
 一歩踏み出す毎に橋全体がミシミシと軋んだ音を立てる。足元を見ると、清流が轟々と音を立てて流れている。ところどころ突き出た岩に水飛沫が跳ね上げる。
 ――落ちたら、死ぬ。
 そう思った途端、「怖い」と感じた。動物としての本能だったのかもしれない。
 人間としては半分死んだようになっていたくせに、死んでしまいたいという思いが脳裏をよぎったこともあったくせに、実際に足を滑らせたら本当に死ぬという状況になって真っ先に思ったことが、「怖い」だったのだ。
 後から対岸の茶店の女将に聞いたところ、20年ほど前は橋板の間隔が30㎝弱もあったそうだ。大人が足を踏み抜くこともあったらしい。今は、靴のサイズ24.5㎝の私が踏み外すことはない間隔に狭まっている。つまり、橋から落ちることは、まずありえない。
 だが、橋の上にいる私はとにかく落ちるまいと必死だった。「死にたくない」とは思わなかったけど、確かに死の危険から逃れようとしていた。
 無事にかずら橋を渡り終えた後、私は自分が感情を取り戻しつつあることを自覚した。

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 その日の宿では、一人部屋にしては広い和室があてがわれた。
 祖谷で買った栗焼酎をそのまま口に含んでいると、舌が溶けていくような感じがした。痛みはない。味蕾がどろどろと溶かされていくような感覚を味わい、ゆっくりと飲み込むと、喉がじんわりと焼けるように熱くなった。
 この土地で幼少期を過ごした父のことを考えた。家で私のことを待ってくれている母のことを想った。受験でひいひい言っているはずの弟のことを思い浮かべた。祖父母の顔を一人一人思い出した。
 酒のせいか、考えごとのせいか、喉元がどんどん熱くなっていく。
 久しぶりに押し寄せた感情の渦に押し流されそうだ。相変わらず「楽しい」「嬉しい」といったポジティブな感情は見当たらないけど、「哀しい」以外の感情がどこからか流れ込んできているのが分かった。
 やっとの思いで唾を飲み込むと、栗焼酎の瓶を仕舞い、新鮮な空気を吸おうと外へ出た。
 意味もなく叫びそうになり、慌てて堪える。それがおかしくて、思わずふふっと笑いを零した。酔っているのかもしれない。それでも、久しぶりに笑えた気がした。私は、足取りも軽くコンビニへと向かった。

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旅行から帰った後、久しぶりに祖父母の家に顔を出した。
祖母が嬉しそうに私にいろいろ話してくれるのを聞きながら、ふと思った。
私自身に生きる積極的な理由はないけど、私が死んだら悲しむ人がいる。生きる理由なんて、そんなもので充分じゃないかと。
本当は自分の使命とか成し遂げるべきこととかを言えた方が良いのだろう。社会に貢献する大人になるべきなのだろう。その方が、有意義な人生を過ごせるのだろう。そう刷り込まれて育って来たし、その考え自体は間違っていないと思う。
だけど、今の私には、劣等感から解放され切っていない私には、そこまでポジティブに考えられないし、生きられない。

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あともうちょっとだけ続きますー独り言ひとりごと。

2015年7月2日木曜日

叫べ、笑え、踊れ、そして涙を流せ<前編>

 実はここ一年ちょっと、軽い引き籠り生活を送っていた。
 思い当たる理由はいくつかあるが、とにかく「人と会うことへの恐怖」がじわじわと心を苛むようになってしまったのだ。
 この、「人と会うことへの恐怖」という感情は非常に厄介だ。
 負のスパイラルに嵌ったら最後、抜け出すのに多大な労力を要する。

 私の場合は、劣等感から始まった。
 直接的な原因は、留学だ。だが、伏線は中学生時代から敷かれていた。容姿、賢さ、運動能力、知力等々、薄らと抱き続けていたさまざまな劣等感が、年月をかけて徐々に膨らみ、ついに抱えきれないほど膨れ上がった時、私の本能は「逃げる」ことを選択した。
 逃げるのだ。友人から。知り合いから。人間そのものから。
 私の人生の中で三指に入る幸運は、中身の濃い高校生活を送れたことだ。優秀な学友に恵まれ、多彩な行事や活動に精を出した日々は、今でも楽しい思い出だ。しかし、同時に、急速に劣等感を抱くようになった時期でもある。魅力的な人々に囲まれて過ごすうちに、自分が酷く場違いな人間に思えてきたのだ。高校卒業後、級友の多くは有名大学に進学し、有名企業や自分の夢に向かって突き進む彼らが眩しく、遊学ごときで萎縮している自分が情けなく思えてきた。
 同時期に留学していた友人たちは、就職活動を始めるとしばらくして無事に内定をもらった。私はというと、留学中の日々に痛切に感じた劣等感に苛まされてそれどころではなかった。
 結局、私は人に会うことを拒否するようになった。友人や知人が眩しいということもあったが、情けない姿を見られたくない、という最後の見栄がそうさせた気もする。とにかく、私は人から逃げることにした。
 部屋に閉じこもって、本やらアニメやらを見て、寝る。自分がこうしてぼんやりしている間にも、友人は先に先に進んでいるのだろう、と思うとますます合わせる顔がない。こんなダメ人間、生きてる意味は果たしてあるのだろうか。いやいや、滅多なことは考えるもんじゃない。でも、みんなとの差は広まっていく一方じゃないか、部屋に籠っていて何か一つでも成長したことはあった?堕ちていく一方じゃないか……
 ぐるぐる、ぐるぐると思い詰めているうちに、「楽しい」「嬉しい」という感情が消失していった。同時に、「怒り」「憤り」あるいは「悔しい」といった感情もどこかへ行ってしまった。気持ちは常にどんよりと曇っていて、ただただ、「哀しい」という感情だけが僅かに残った。

 生物としては生きているが、人間としてはどんどん死に近づいている気がした。
 





キリがいいので一旦区切ります。



今までの統計データ的にそんなに見ている人もいないだろうから、個人的なことを書いてもまあ大丈夫でしょう、という非常に楽観的な考え。需要がないのは分かってますって。
タイトル回収できなかったけど、考え直すの面倒なのでそのままー

一年経ってもまだ変わらない

A year has past still on the ground
Been to nowhere and all around
We've had our ups and sometimes downs
       ----Neverstore, "ROCKTHEFOOL"'Heroes Wanted'



一年近く放っておいてしまった。本当に飽き性だ。
たぶん、これがただの独り言だから続かないのだろう。
生産性もない。
コンテンツ作りって難しい。

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私の好きなロック・バンドと言えば、NEVERSTOREだ。
マイナーだということに気付いてからは、好きだと公言しなくなったが、粗削りな感じが気に入っている。
スウェーデン出身のスリーピースで、イケメン揃いだ。ちなみに、私は断然フロントマンのジェイコブ派。黒髪に黒い目の、正統派美男子。しかし、PVでは大体イケメンに見えない残念男子であるところが良い。
さて、冒頭に掲げた歌詞は、セカンド・アルバムの"Heroes Wanted"の最初の曲、"ROCKTHEFOOL"の一部を引用した。
……今の私がまさにその状況なのだが、残念ながら昨年より進歩していない。それどころか、悪化している気がする。ひとえに自分のせいなのだが。
このアルバムを好んで聞いていた高校時代の内なる衝動を懐かしく思い出す時、あまりにも堕落してしまった今の自分の惨めさに愕然とする。
そして、やっぱり頑張らなきゃと思わせてくれるエネルギーが、この曲、いやアルバムには込められている気がするのだ。

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約一年ぶりのブログ記事だが、相変わらず内容がないよう。
誰のために、何のために文章を書くのか。
そのへんをはっきりさせないと、たぶんまた長々と放置することになるだろう。
それは分かっている。
さあ、どうすべきか。サイバー空間という巨大な闇に向かって、私は何を叫ぼうとしているのか。